一冊の本が与えてくれるもの

 本が人生に与える影響は、ときに計り知れないものがあります。困難から救ってくれることもあれば、想像もしていなかった気づきを与えてくれたり、一歩を踏み出すための背中を押してくれたり……。このコーナーでは、様々な人生を歩む素敵な女性たちから、「人生を変えるきっかけになった一冊」をご紹介頂きます。

 その第1回目を飾るのは、フリーランス・ライターの桝郷春美さん。文化や人々の暮らしを中心に、日々の出会いの中から題材を見つけ、各誌に企画提案や寄稿をされています。なかでも最近は、身近な暮らしの中にある世界の広がりに目を向けているとか。そんな桝郷さんのライフワークは、約百年前に渡米したひいおじいさんの日記を読み解き、執筆されること。「日本海沿いの村とアメリカの山奥の移民の足跡をたどりながら、時のこえを聴く。じいちゃんの昔言葉と私のエッセイで、共に言葉を奏でるようなイメージをようやくつかめたところです」と語る、桝郷さんの人生を変えた一冊はこちらです。

『神戸・長田スケッチ 路地裏に綴るこえ』佐野由美著

神戸・長田スケッチ 路地裏に綴るこえ』著・絵 佐野由美

 この本は、美術作家の佐野由美さんが地元の神戸・長田を描いたイラストとエッセイ、絵日記です。前半は下町のスケッチと、その風情を著者の思い出と共に綴った文章。ユニークな観察眼で、町や人の個性を民族性にまで及んでありありと伝えています。後半は阪神・淡路大震災の3日後からリアルタイムで描かれたイラスト日記。当時19歳の美大生だった佐野さんが、自宅で被災した自らの体験を記録したもの。怒濤の日々の息づかいが聞こえるような内容です。それでいて気負わずに読めるのは、絵が親しみやすく、短い文章から素直な気持ちが伝わって、だからむしろ心に食い込んでくる。そんな深みがあるから。

 初版は1998年ですが、私がこの本に出会ったのは復刻された2014年。当時、私はフリーランスのライターとして、かけ出して数年が経った頃でした。東日本大震災の被災現場に身を置き、何をどう伝えればいいのか途方に暮れた先で、世の中と表現との関わりに手がかりを求め、演劇や映画、写真、絵画、華道など、震災を機に出会った表現者の方々にルポやインタビューを行っていました。プライベートでは結婚生活に終止符を打って間もない時期でした。もう後戻りはできない。表現に心を突き動かされて書くことで、どうにもならなさを別の次元に転化しようとしていたのかもしれない。そんな自分に薄々気づき、どこか後ろめたさを感じていました。ライターとしての自分と、個人としての自分を切り離そうとするものの、私は私であり芯の部分ではどうしたってつながる。そんな葛藤の中でこの本に出会い、もっと肩の力を抜いていいんじゃないか、と思えた。そうした時に、表現の手前にある、大事なものを教わった気がするのです。それは、今この時をこの場所で生きること。

「生きていること」がゼロ地点だった

 佐野由美さんは、被災直後の日々について「『生きていること』がゼロ地点だった」と書いています。「またとない貴重な時間の中で、これから生きていくうえでの価値観の底辺をしっかりと根づかされたし、私の人生観、社会観を、より深いものにしてくれる原動力となったことであろう」と、震災から約3週間後に記しています。この本を読む時に私は、ある事実を知っていました。それは、その後の人生で由美さんが交通事故により逝去されたこと。23歳の若さで。

 私は由美さんに直接会ったことはありません。ですが、ライターであることがきっかけで、そのうち個人として、由美さんの周りの方々と交流する機会が度々ありました。長田にも足を運ぶようになり、本に出てくる登場人物や町を直接知るように。旅立たれてから20年余りの時が流れる中で、変わらず想いを寄せ続けている人たちがいて、その一人ひとりの心の中に由美さんが生き続けているような印象を受けました。この世を去った人と共に生きる感覚を教えてもらった。本はその扉のような存在。

 『路地裏に綴るこえ』には、何気ない風景の中で由美さんが見つけた宝物に満ちあふれています。坂を上るセーラー服姿の少女のスカートが風にふわりと舞う瞬間の絵。タイトルは「石壁のこえ」。通学路、石壁の超然とした佇まいに励まされる多感な思春期を綴った文章が添えられている。「風化による絵画-工場街-」という題のページには、路地裏の古びた建物群がきめ細やかな線画で描かれ、細い隙間のような路地を体操着でおしゃべりしながら2人の少女が歩いている。そんな工場街を絵画に見立て、音楽の旋律を感じ取っている味わい深い文章。そんな風にページをめくる度に、生活の中の景色が魅力を帯びて立ち上がってくるのです。

 きっと子どもの頃から、由美さんは町のこえを聴いていたのだろうな。生きる、暮らす、私でいることの根っこを見つめたい時、私は今もこの本に助けられています。この一冊には、生きることのときめきがたくさん詰まっているから。

この本を紹介してくださった桝郷春美さん。

紹介者:桝郷春美さんプロフィール

ライター。航空会社を退職してアメリカに留学。Seattle Central College卒業後、大リーグ球団で働く。滞在中、かつて米国に移民したひいおじいちゃんの日記を読んだことがきっかけで、はみ出た歴史に興味を抱きライターの道へ。帰国後、編集関係の仕事を経て、新聞社の契約スタッフに。アサヒ・コム(現・朝日新聞デジタル)編集部で舞台のページを担当後、2011年以降はフリーランスとして雑誌やウェブサイトに執筆。東日本大震災以降、世の中と表現の関わりを軸に人物インタビューや現地取材に精力的に取り組む。出身は福井県小浜市。ジャズ喫茶との出会いをきっかけに、現在は京都のローカル電車が走る商店街のある町に住む。 https://harumasu.hatenablog.com/

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