電話口で泣き止まない太郎くん
児童相談所から帰宅する間、私と夫はほとんど何も話しませんでした。その時まで目が回るほどの多忙を極めていた私は、太郎くんが自分の手から離れて正直少しホッとしてしまった罪悪感と同時に、これからどうなってしまうのか全く見当がつかず、不安な気持ちでいっぱいでした。
夫はいろいろ考えているようで特に何も言いませんでしたが、夫も私も急に子育てから解放され、久しぶりにそれぞれが自分のやりたいことに時間を使って、少しリフレッシュできました(太郎くんには申し訳ないけれど)。
もちろん太郎くんが一時保護所でどうしているか、彼は今の状況をどう感じているのか、私たちと離れたことを喜んでいるのか、それとも悲しんでいるのかなど、ずっと気にしていました。しかし、夫婦で今後の生活について話し合う前に、児童相談所の担当職員から電話がかかってきました。太郎くんと離れてから、すでに1週間が経っていました。
担当職員によると、太郎くんは元気に過ごしており、特に心配することはないとのことでした。報告を受け、私は安心しましたが、太郎くんのことが気になるので電話で話したいと伝えると許可をいただけたので、早速、直近の週末に太郎くんに電話をかけました。
電話が太郎くんに繋がり、私が「太郎くん? ももさんだよ」と言うと、電話の向こう側から大きな泣き声が聞こえました。私は「私のこと分かるよね? 元気にしている?」などと話しかけ続けましたが、泣き声はさらに大きくなるばかり……。そのうちに落ち着いて泣き止み、何か話せるかと期待しましたが、結局20分ほどの間、太郎くんは一度も泣き止みませんでした。
太郎くんとの生活を継続できるのか?
電話を切った後、私は太郎くんが一言も話さずに泣き続けていた理由を自分なりに考えてみました。
5歳の子どもとはいえ、太郎くんは自分の置かれた状況についてある程度は理解しています。私たち大人もこれほど不安なのですから、太郎くんはこれから自分の生活環境はどうなってしまうのか、不安でいっぱいなはずです。そんな状態で1カ月以上も施設で生活するのは、毎日どんな気持ちでいるでしょうか?
その夜、私たち夫婦はようやく向かい合って、「今後、太郎くんとの生活を継続するか、それとも止めるのか?」について真剣に話し合いました。
私たちが太郎くんとの生活を継続しない場合、太郎くんは今後も施設で生活することになるでしょう。そして、私たち夫婦は残りの人生でいつも「今頃、太郎くんはどこで何をしているのかな」と考えることになる——。
でも、今の状況をこのまま継続することはできない。
何が最も難しい問題なのか、何を選べばみんなにとって最適な状況になるのか、何が難しいのかなどをいろいろ模索しましたが、明確な答えは出せず、モヤモヤした気分の日々が続きました。「もうダメかもしれない……」と親しい友人に漏らしたのも、この頃でした。
私たち夫婦は、毎晩、今後のことを話し合いましたが、答えが出ない日々が続きました。夫は太郎くんに無視され続けた事実にとても傷つき、それが今後も続く可能性があることを恐れると同時に、ひとりでは何もできない子どもを見捨てられない心の葛藤に苛まれていました。
そんな折、再び児童相談所の担当職員から電話があったので、答えが出せない私たちの気持ちを正直に伝えてみました。すると担当職員から、こう言われたのです。
「子どもを家庭に受け入れることは、生易しいことではありません。この子はかわいくないとか、この子が気に入らないとか、この子との生活はもう無理だと言って子どもを簡単に施設に戻す——。施設に戻して関係を打ち切ろうなんて簡単にはできないんですよ。子どもの気持ちや子どもが置かれた状況になって考えてみてください」。
太郎くんのいない人生を想像してみる
担当職員の言う通りだ、と思いました。電話を切った後、私はその場に座り込み、15分ほど今、言われたことを考えました。「私は太郎くんとの関係を打ち切ろうとしているのか?」「私の残りの人生の中に太郎くんがいなくてもいいのか?」ということを。
もし街で太郎くんと同じ年頃の子を見かけたら、私はどう思うだろう? 太郎くんには我が家は彼のおうちだと教えたのに、太郎くんの両親は夫と私だと伝えたのに、そのおうちが急になくなって、お父さんとお母さんが消えてしまったら太郎くんはどう思うだろう? 太郎くんは私の息子じゃないということなのか? 私たち夫婦の気持ちはそんなものだったのか?
「ねえ、なぜ特別養子縁組をする決心をしたのか、もう一度考えてみようよ」と私は夫に提案し、当初の気持ちを夫に改めて聞いてみました。しばらく考えて夫はこう言いました。
「親を必要としている子どもの親になりたい、と思ったから」。
そうでした、私たちは親になりたかったのです。でも、こんなに大変だとは想像していなかったことで、壁にぶち当たって前に進めなくなってしまったのです。
「でも私たち、まだ太郎くんの親になれていないね」
「親になれていないどころか、僕は逃げ出しそうになっている」
「でも、逃げ出したいわけじゃないよね? どうしていいかわからないだけ」
「そう、どうしたらいいかがわからない……」
そうして考えて考えて考えて私たち夫婦が出した結論は、「太郎くんの居場所はこの家」。ここが彼の家、だから迎えに行きたいという旨を担当職員に連絡し、児童相談所の判断を待ちました。
結局、太郎くんは5週間ほど一時保護所にて生活をした後、我が家に戻ってきました。私と夫は初めは彼の様子を伺っていましたが、1カ月以上も離れていたことでお互いの必要性を感じたのか、我が家に戻ってきてからの太郎くんは夫のことを無視しなくなり、何事もなくこれまでの生活に戻りました。
では一体、太郎くんはなぜ夫のことを無視していたのでしょうか?
このことについて太郎くんが自分の気持ちを話してくれたのは、実はそれから何年も経ってからのことでした。夫を無視した理由はなんと、「お父さんが英語で話しかけて来るので、何を言っているのかさっぱり分からなくて怖くなった」とのこと。子どもだろうが、大人だろうが、相手が何を考えているかは本人に聞かなければ分からないものなのだなと、つくづく実感して、家族みんなで笑いました。
我が家の特別養子縁組体験記はまだまだ続きます。次回もお楽しみに!