ひとり駅弁部 第32話『懐かしいあの時代』

電車と結びついた幼い頃の記憶

 私は18歳まで新潟市で過ごしたけれど、生まれてから3歳までは東京で暮らしていた。その頃の断片的な遠い記憶がかすかに残っている。

 踏切が「カンカンカンカン」と閉まって、母と手を繋いで電車が通り過ぎるのを待っている。踏切の先にはデパートがあって、何かの垂れ幕が下がっている。そんな情景がぼんやりと浮かぶのだ。当時母は看護師をしていて、出勤途中に私を保育園へ預ける道すがらだったのだろう。のんびり屋の私に毎朝ごはんを食べさせ、急いで走って出掛けるものだから「途中でシホがいつも戻しちゃって大変だったのよ」と懐かしそうに母が話してくれたことがある。

 「私はどんな子どもだった?」と父に尋ねると、電車に乗っていると、車窓から流れてくる景色を見ては「あれなぁに?」としょっちゅう聞いてくる子だったらしい。父が説明しようとする前に、私は目にしたものを次から次へと質問するので回答が間に合わず、周りの乗客から笑われたそうだ。まったく憶えていないけれど、父からそのエピソードを何度も聞かされているうちに、その情景も目に浮かぶようになってきた。両親の思い出が私の記憶となって勝手に映像と結びついてしまったのだろうか。  

 そして、なぜか私の東京の記憶は電車と結びついているものが多い。もしかして駅弁好きのルーツは、この頃に形成されたのかもしれない。

雛人形は早く片付けないと「お嫁に行き遅れる」説

 新潟に引っ越して1軒家に住んでいたときは、家に7段飾り雛人形があった。ままごとみたいに雛人形の道具を飾るのは楽しかった記憶があるが、マンションに引っ越してからは、それはずっとタンスの上の箱の中に収められていた。その後、飾られた記憶がないのは家が狭くなったからだと思うが、少し面倒くさがりの母が自主的に飾るのをやめたんだと思う。

 小さい頃、私は二段ベッドの上段に寝ていたので、その箱が毎朝目に入って気になっていたが、大きくなるにつれ、その存在を忘れるようになった。箱の中にずっと入ったままの雛人形ご一行様には可哀想なことをしたと思う。

 ひな祭りのあと、雛人形を早く片付けないと「お嫁に行き遅れる」というのを聞いたことがあるが、私は23歳で結婚した。何も考えずに結婚してしまったが、もしかしたら雛人形を箱から出さなかったから行き遅れなかったのかもしれない。でもまぁ、結局失敗したので、結婚は早いからいいってことはないと思う(苦笑)。むしろ、結婚は人生経験を積んでから30代以降にした方がいいというのが、今の私の持論だ。

あるとき再び父が飾り始めた雛人形

再び飾られた雛人形

 母が亡くなって初めて3月を迎えた頃、父から「出しました」とひと言のメールが届いた。何事かと思ったけれど、送られてきた写真には、母が好きだったガラスの雛人形が写っていた(人形の前に金柑が置かれているのが気になったが、苦笑)。父は私たち姉妹を思っておひなさまを出したのだろうか。いや、たぶん母を思ってのことなんだと思う。

 当時、私たちは東京で暮らしていて、母が亡くなったあとは父ひとりだった。今思うと、2人で暮らしていた家に1人で住むのは寂しかっただろう。父は料理など家事全般何でもできるマメ男で、母が認知症になってからは仕事に行く前に母の朝食と昼食を作って出掛けていたので、その辺は何も心配していなかったが、そんな父の姿を知らない父の友人たちは、心配して食事を届けてくれていたらしい。その話をしながら父は苦笑いしていた。父は自分のことを友人たちに言わないようだ。何かあると誰かにストレスを吐き出して元気になる女性と男性は違うのだろう。

 母が元気だった頃は「お父さんには言わないでね」と母にだけ相談していたこともあるけれど、今は父といろんな話をするようになった。これも人生の経験を積んで父と対等に話せるようになったから。大人になるのもいいもんだと思っている。

今月の駅弁:東華軒「桜満開 花見べんとう」

 3月は感情が忙しい。受験の合格に一喜一憂したり、卒業してそれぞれの人生を歩み出したり、そして、もうすぐ桜の季節もやって来る。今回ご紹介するのは、明治21年創業の東華軒『花見べんとう』。大きな殻付きの「海老塩焼き」が目を引く。私のお気に入りは甘く煮た「筍鶏そぼろ」。東華軒の名物らしい。錦糸卵や玉子焼きの黄色、桜海老や大根つぼ漬、桜餅の淡いピンクも春らしい色合い。おかずが多過ぎてごはんが足りないけれど、ほろ酔いになりながらの花見にはうってつけのお弁当だ。毎年春限定で販売される駅弁で、以前は「三色ミニ串天」なども入っていたが、少しずつ内容が変化している。毎春の恒例駅弁として楽しむのもいいかも。

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