太郎くんの母子手帳

私の知らないことが書かれているはず

 太郎くんが児童養護施設から我が家へ引っ越す際、施設の職員さんから重要な書類のひとつとして、太郎くんの母子手帳を手渡されました。その手帳を受け取った瞬間、すぐに中身を見たくて堪らない衝動に駆られましたが、その気持ちをグッと抑えて手帳をそっと鞄の中にしまいました。

 それまでにも児童相談所の担当者や児童養護施設の職員さんから、太郎くんの生い立ちについて聞いていましたし、実母さんのお名前も知っていました。児童相談所から太郎くんを紹介していただいた際、既に特別養子縁組に同意していた実母さんの署名入りの文書を見ていたからです第6話参照)。

 とはいえ、私たち夫婦が知らされた情報はその程度でした。だから、「この母子手帳には、きっと私が知らないことや、実母さんだけが知り得ることがいろいろと記録されているはずに違いない」と考えると胸が高まり、「誰にも邪魔されずに、隅から隅までひとりでじっくり読みたい」と思ったのです。

母子手帳と向かい合う

 母子手帳のことを気にかけたまま、太郎くんとの新生活が始まりました。引っ越し直後は私がひとりになる時間は全くありませんでしたが、数日ほど経った日、太郎くんを寝かしつけた後に夫が自分の部屋へ仕事をしに行ったので、私がひとりになる時間ができました。

 「よし、チャンスだ」と思い、母子手帳を手に取りましたが、いざ手に取ってみると緊張してページを開けません。一旦、手帳をテーブルの上に置き、落ち着こうと大きく息を吸い込みました。

 私は自分が小学生のときに、学校で自分の生い立ちについて作文を書くという課題があり、そのとき母が初めて母子手帳を見せてくれました。海外へ渡航する際にも、過去の予防接種の記録を確認するために母子手帳を見たので、その手帳にはどのような情報が記載されているかは、だいたいの見当がついていました。

 しかし、自分の母子手帳を見るのと、太郎くんの母子手帳を見るのとは大違いです。私は再び大きく深呼吸をして、自分が少し落ち着いたことを確かめてから、恐る恐る太郎くんの手帳の最初のページを開いてみました。

母子手帳の筆跡から想像できること

 そこにはまず、実母さんのお名前、生年月日、身長、体重、住所が記載されていました。そのページに並んだ文字と数字を眺めながら、私はお会いしたことのない実母さんの姿を想像してみました。

 さらにページをめくると、太郎くんが産まれた病院の名称が記載されていました。早速ネットで検索すると、その病院はすでに取り壊されて、別の病院として新築移転していることがわかりました。私が産まれた病院も既になくなっていたので、そこに太郎くんと自分の共通点を見つけて、何だか少し嬉しくなりました。今の病院はまったく別の病院だとわかっていても、太郎くんが産まれた病院をいつか見に行ってみたいという気持ちになりました。

 そんな気持ちを抱きながら、太郎くんの予防接種や定期健診の記録、発育の様子などを、じっくりと時間をかけて読み進めていきました。

 母子手帳の記述から想像できることは、他にもありました。私たち夫婦は、児童相談所から初めて太郎くんについての説明を受けた際に、「出生後は乳児院、その後は児童養護施設で生活をしています」と聞いていました。それを裏付けるように、妊娠期間中の手帳の記述は実母さんによるものでしたが、出産後は筆跡が代わり、別の方が記述をしていました。太郎くんが特別養子縁組を必要とした理由のひとつは、実母さんにとって「望まない妊娠」だったからだと聞いていたので、筆跡を見ながら、そうせざるを得なかった実母さんへ想いを寄せました。

太郎くんと家族になった「ご縁」

 母子手帳の最後の数ページめくったときに、2枚の小さな紙がヒラリと床に落ちました。「何かしら?」と思いながら拾いあげると、それは実母さんの体内にいる太郎くんのエコー写真でした。私は長い時間、黙ってじっとその写真を見つめていました。どれくらいそうしていたでしょうか。しばらくすると、夫が自分の部屋から出てきたので、夫にそのエコー写真を見せると、彼もしばらく黙って、じっと写真を見つめていました。

 母子手帳を読み終えて、私が考えたことは、「実母さんは深い事情があった中、妊娠を継続しないことを決断することもできただろう。流産する可能性もあったかもしれない。だから、こうして太郎くんが生まれて来たことには、大きな意味があるはず」ということでした。

 そして今、太郎くんは、ご縁あって私たち夫婦と親子に、そして家族になろうとしている——。

 太郎くんだけに限らず、家族を必要としている子どもたちは世界中に数えきれないほどいる中で、「私たち夫婦が太郎くんと出会ったことは、とても不思議な縁……」と、思わずにはいられませんでした。

 この母子手帳を読んだ日を境に、私の心の中で、ほんの少しではあるものの、実母さんに近づけたような気がしました。以来、実母さんは私の心の一角を占める特別な存在となっています。

 我が家の特別養子縁組ものがたりはまだまだ続きます。次回もお楽しみに。

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