
【カリフォルニアの隠れ家バー便り】
世界中からチャンスを求めて移住者がやってくる米カリフォルニア。人種の坩堝の中で生きる様々な人たちが、ふらりと訪れる小さなバーで働く日本人バーテンダーが、カウンター越しに耳にしたリアルなアメリカをつぶやきます。
人生を「その人らしく」終わらせるために
今日のお客様
セスさん(40代、仮名)はとっても朗らかな印象の男性で、職業は「緩和ケア医療」の医師。重い病気を抱えた患者の身体的・精神的・社会的な苦痛を和らげ、生活の質(QOL)を向上させるためのケアとは具体的にどんなことをするのでしょうか。
本日ご来店されたセスさんは「緩和ケア」(英語ではパリアティブ・ケア=Palliative Care)の医師。重い病気を抱えている患者さんが、少しでも快適に「その人らしく」生活できるようにサポートをする医師で、「病を治す医療」というよりも「今をどう生きるか」を考えるのがご専門だそうです。私も個人的に興味があることだったので(その理由はこの後で話しますね)、お客様なのに私の方から質問攻めにしてしまいました(笑)。
緩和ケアの患者さんはお年寄りだけでなく、若い方も多いそうで、セスさんによると「もちろん薬を投与して痛みを和らげたりもするけれど、患者さんやその人の家族と共にどんな治療を選ぶのが本人にとって一番良いかを話し合い、難しい選択がせまられる場面を上手くナビゲートしていくのが僕の仕事なんだ」。人の死と向かい合い、患者や家族と深く関わるなんて、なんだかすごく難しい分野のように思えますが、「難しいこともあるけど、とても人間臭くて、すごくやりがいある仕事だと思っているよ」と柔らかい表情で説明してくれました。
死が近づいた患者本人と家族らと話し合い、その結果、ホスピス施設に行くことになったり、在宅で最後を迎えることにしたり、尊厳死の選択肢がある場合はそれを選択したり……という話を聞き、「えっ、尊厳死?!」と、私は驚いて聞き返してしまいました。
「尊厳死の選択が出来るのは、アメリカではオレゴン州だけですよね?」
「いや、カリフォルニア州でも尊厳死は合法だよ」
安楽死と尊厳死の大きな違いとは?!
セスさんは緩和ケアの専門医なので、アメリカにおける尊厳死に関する法律やどうすればそれを選択できるのかなどをご存知ですが、患者や家族の多くが知らないそうです。私自身、オレゴン州で尊厳死が選択できることは結構有名な話なので知っていましたが、カリフォルニア州でも合法だとは知りませんでした。また、私が「尊厳死だと思っていたこと」は本来のそれとは認識が違っていたこともわかりました。
まず、カリフォルニアの法律はこうです(2025年5月現在)。この制度はオレゴン州をモデルにして作ったそうで、「End of Life Option Act(終末期の選択肢法)」と呼ばれています。そして、この制度を利用できるのは以下の条件をすべて満たした患者のみです。
1) 18歳以上であること
2) カリフォルニア州に居住していること
3) 余命6か月以内と診断されていること
4) 自分で医療判断を下す能力があること
5) 処方された薬を自分で服用できること
アメリカ50州のうち、現在この「終末期の選択肢」の法律があるのは10州と1自治区(カリフォルニア州、コロラド州、ハワイ州、モンタナ州、メイン州、ニュージャージー州、ニューメキシコ州、オレゴン州、バーモント州、ワシントン州およびワシントンDC)。だいたい各州同じような法律です。
アメリカの5分の1の州で尊厳死が認められていることにも驚きましたが、私がもっと驚いたのは、自分が5番目の「自分で薬を服用できること」を認識していなかったことでした。私がそれまで抱いていた尊厳死とは「医師が注射で薬を患者に投与し、患者はやすらかに息を引き取る」というイメージでした……。
そうなんです、それは「安楽死」であって、「尊厳死」ではないんです。尊厳死の場合、医者は薬を処方するだけ。その薬を服用するか否かは最後まで患者本人の意思に委ねられるのが「尊厳死」、つまり「患者は自分の意思で薬を飲んで死を選ぶ」のです。
ちなみに医師が薬を投与する安楽死はアメリカでは違法ですので、お間違えのないように。ヨーロッパの数カ国(ベルギー、スペイン、スイスなど)では合法だそうですよ。
尊厳死の手続きのしかた
「もし私が重い病気で、尊厳死を選択したい場合はどうすればよいんですか?」
次々と質問する私に嫌な顔をするどころか、微笑みながらセスさんが教えてくれたのはカリフォルニア州の場合です(うちの店はカリフォルニアにあるので)。
まず最低2回、少なくとも間を48時間以上あけて口頭で医者に尊厳死のための薬の処方のリクエストをする。その後、証人と共に書面で申請。そして2名の医師が診断内容や患者の意思能力を確認。これは「患者の余命が6カ月以内であること」、「本人は自分の意思で行動を起こせる能力があること」を確実にするためだそう。つまり認知症やアルツハイマーが進行している患者さんはこの条件を満たすことはできません。
また、もし途中で「やっぱりやめたい」と思ったら、いつでもやめる判断が自分でできること、「いつ、どこで、どのような状況で薬を服用するのか」も本人の意思で決められるそうです。
患者が法的な条件に合っている場合、どんな手順が必要かを患者本人やご家族に説明することもあるセスさんは、こうも言っていました。
「尊厳死制度の目的は患者に死を急がせることではなく、自分の生き方をコントロールし心の平静を与えるということなんです。尊厳死の選択肢があると分かっているだけで安心できるので、処方をされた薬を使わない人もたくさんいるんですよ」
日本における尊厳死とは?
急に我が家の話になりますが、私の両親は日本で暮らしているのですが、かなり前から「日本尊厳死協会」の会員です。日本にその法律はないものの、「終末期には延命処置をしないでね」という強い意思を以前から子どもたちに伝えていました。
ですから、父が入院して「もう施す治療が全くない」と分かった時には、父の意思を継いで退院させ、自宅で父を家族全員で看取りました。我が家の場合は、父本人も含めた家族全員と主治医の判断が合致したので何も問題ありませんでしたが、法律が定められていない日本では尊厳死の選択はグレーゾーンのようでした。きっと医師の使命やモラルを問われたり、患者と家族の意見が食い違った場合には医者の責任や訴訟の心配などもあったりするのでしょう。
ただ日本における「尊厳死」は医師が患者の命を短くする薬を処方することはなく、自然の成り行きに任せて死を迎えること(延命措置を止めること)を言うので、アメリカの「尊厳死」とは違います。ですから決断されるのは最期の直前という感じで、父の場合は退院して24時間後に亡くなりました。
父の死を経験したこともあり、私は人はみんな最後まで「自分らしく」ありたいと思っているのではないかと思います。最後の最後まで諦めずに治療の継続を希望する人もいれば、最期は自宅で穏やかに過ごしたいと思う人もいるでしょう。私たち夫婦は子どもがいないこともあり、二人で「人生ここで終わりスイッチがあるといいね」とか「食べられなくなったらスイッチ切ってね」とよく話しているのですが、セスさんのような穏やかな先生が「どうやって死ぬか」ではなく、「どうやって最後まで生きるか」という相談にのってくれたら嬉しいなと思います。
自分が住んでいるカリフォルニア州でもこの選択肢があると知れてよかったと思いました。それを教えてくれたセスさんへのお礼のカクテルは、エレガントでクラシックな「サイドカー」。これをゆっくりと楽しまれる姿はとても落ち着いていて、頼りなる緩和ケアの先生のイメージにぴったりでした。これからも多くの患者さんに寄り添ってくださいね。
今月のカクテル:サイドカー

コニャックをベースにしたクラシックの中のクラシック・カクテル。20世紀を代表するカクテルのひとつで、温かく、強く、そして甘酸っぱいという洗練された味のバランスでも有名です。シュガーリムを省けばドライなフィニッシュにもなりますが、私は一口ごとにちょっとお砂糖に触れる甘さが好きです。ぜひ両方試してみてください。